森有正先生が学生たちに語った言葉のなかに、こんな趣旨の言葉がある。神を試みるひと、神は存在するのかと試して確かめようとするようなひとには神は姿を隠される。そうではなくて、こころの底から呻きつつ神を求めるひと、へりくだって神を求めるひとにこそ、神はご自身を現してくださる。「これが本当のディグニティということです」。ディグニティ、人間に求められる尊厳、それは、呻きつつ、自分の不信仰を嘆きつつ神を求めるひと、そして、そのようなへりくだった者にこそ神は現れ、そのひとの尊厳、そのひとの真実の値打ちも現れる。現代の人間が主張し、尊ばれることを求めてやまない人間の尊厳は、ここに現れる。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、293頁
2020年10月2日(金)
「ディグニティ」<dignity>を辞書で調べると「1、威厳、重々しさ、荘重さ」「2、品位、気品、気高さ、尊さ、尊厳、自尊心」「3、高位、高官、位階、爵位、高位(高官)の人、高僧」など。
「呻きつつ」「自分の不信仰を嘆きつつ神を求める」「へりくだった者」そこに神さまは現れてくださり、同時にそのひとのディグニティも現れる、と。一昨日の米国の大統領選に向かっての討論会は、これとは全く逆のすがたを私たちは見ることになりました。大切な政治を担う人たちにディグニティが見られないということに、私たちが大いに憂いを抱かなければならないことでしょう。
しかしそれ以上に自分自身がどうであろうか、ということが大切なことです。マリアさんの信仰を学ばなければなりません。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカ1・47-50)