主イエスは、私たち、神に造られた人間が、どれほど輝く存在となり得るかを証しすることを求めておられる。しかし、それは、人間存在がどれほど深い闇にあったかを知ることと重なる。手放しの人間肯定、理想主義的な人間賛歌とは異なる。私たちが立派な行いに生きるとき、それを見る者は、人間賛美ではなく、私たちの天の父、全能の神を崇めるようになる。神を崇め、礼拝することこそ、信仰の教育の基本なのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、278頁
2020年9月19日(土)
暗闇の世にあって、信仰に生きる者は、光となって世を照らすのです。その光とは「立派な行い」であると、主は言われます。行いではなく信仰による救いであると、プロテスタントは声高に言うのですが、だいたい行いと信仰を対置して、信仰のみを主張しようとすることは、聖書の語る所ではない、ということをそろそろ知らなければならないのだと思います。聖書は全体を読まなければなりません。真実の信仰は、おのずと行いを伴うものです。
信仰者が、良い行いによって輝くのは、信仰者自身のすばらしさが示されるためではなく、そのように輝かせてくださる神さまのすばらしさが示されるためである、と聖書は語ります。キリスト教信仰は、単なるヒューマニズムではない、ということでしょう。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5・14-16)