聖餐の恵みを受けて立ち上がるとき、私たちの全存在が新しくされる

ここでの休息は、ああ、くたびれた、とただ座り込むだけで、立ち上がったときには疲れがなお深まっているとは、酔いに暫しの憂さばらしをするというようなことではない。文字通りリフレッシュする。新しい力を得て立ち上がる。そのための休みである。主の食卓は、そのような力を持つ。聖餐の恵みを受けて立ち上がるとき、私たちの全存在が新しくされるのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、272頁

2020年9月13日(日)

新しい力を得て、はじめてそれが私たちの休息になります。新しい力を得る、それこそリフレッシュであり、リトリート、リクリエーションです。何もしないということが、私たちの休息をもたらすのではありません。主のいのちをいただくことで、私たち人間は新しい力を得るのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11・28)

「わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。」(イザヤ65・1)