私たちは胸を打つ祈りを忘れるのではないか

ファリサイ派の男と徴税人の祈り、うぬぼれて自分の義を誇るばかりの祈りと、自分の罪に途方に暮れ、ただ赦しを乞うばかりの祈りの対比が語られている。・・・聴く私たちは、自分は当然、この徴税人であると思い、ファリサイ派とは縁が遠いと考える。・・・だが、そのようにして私たちは胸を打つ祈りを忘れるのではないか。徴税人は自分の罪の赦しを求める。赦されるといことは、罪を犯し続ける自分がそのまま認められることではない。それを求めるのであれば、それは開き直りでしかない。弱者の義を誇り、ファリサイ派と同じことになり、強者でないことを誇ることになる。罪のなかにある者は、神を仰ぎ見ることもできないのである。そこに主が求められる信仰が見出されるのではないか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、270頁

2020年9月11日(金)

義とされる者とは、自分のなかに義がないということを知り、その現実に自らの胸を打つ者、ということでしょう。開き直ってしまうことは、開き直りという「義」に生きてしまうこと、なのでしょう。教会で信仰の証しがなされます。その証しの中で、いかに自分の過去が罪の中にあったのか、が語られることがあります。胸を打ちながら語られることもあります。しかしときおりそれが歪んだ「義」として語られているように感じたこともありました。それは私だけでしょうか。胸を打つことを忘れた罪の告白は、結局は自慢話なのでしょう。義と認められる人生は、そこには生まれません。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18・13)