激しい祈りに生きること

信じるとは、神の義を信じること、それが実現されていない現実に諦めないこと、義によって自分が守られるようになるために情熱をもやすこと、真実の審き手に忍耐強く、激しく義の実現を求め続けること、そのような激しい祈りに生きることであろう。私たちの祈りに、この<やもめ>の激しさがあるであろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、269頁

2020年9月10日(木)

「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」こそ、キリスト者である、それがイエスさまを信じる者の姿である、とイエスさまは言われました。義に飢え渇き、義を求める者でありたいと思いました。

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。『ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」』それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』」(ルカ18・1-8)