宗教改革という言葉がある。・・・本来のあるべきものに帰ることによって新しくなるのである。・・・いわゆる宗教としてのキリスト教の斬新な改革を求めたのではなかった。福音の原点に戻るとき、ルターも意図しなかった新しい教会の形成を余儀なくされただけである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、255頁
2020年8月28日(金)
宗教改革者として知られる人物としてルターやカルヴァンを挙げることができますが、おそらく彼らは自分が改革者であるということを主張したことはなかったのではないかと思います。そのときの宗教のあり方が、聖書にしるされている内容と違うことに気づいて、聖書に戻ろうとしただけだと思います。そして聖書に戻るということは、アウグスティヌスなど古代教父に戻るということ、だったのだと思います。
ですから初代教会に始まった教会の道が、ある時期大きく曲がってしまったので、本来の道に戻したというのが宗教改革のなしたことでしょう。時期同じくしてローマ・カトリック教会も改革をしました。ですから宗教改革者たちが戦ったのは当時のローマ・カトリック教会の問題であって、今日のローマ・カトリック教会にはその問題点はありません。つまり今も贖宥符(免罪符)を売っているようなことはありません。
福音に生きる、生かされる、福音を恥としない、ということ。福音こそ信じる者に救いをもたらす神さまの力であるということ。そのみ言葉に生きるということは、つねに自分自身が「改革」されるということを求めることではないかと思います。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ1・16,17)