異邦人伝道にひたすら生きた自分の歩みを振り返りながら、キリストの教会の歴史にとって画期的な出来事であった異邦人のための開拓伝道をした自分の功績は語らない。自分が敢えて語ることは、「キリストがわたしを通して働かれたこと」以外の何があるであろう。私も伝道者のひとりである。開拓伝道という言葉があるが、およそ伝道と呼ばれるもので、新しい地を開拓することのない伝道はない。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、236頁
2020年8月9日(日)
神さまは人間を通して、ご自身の福音を宣べ伝えようとされました。ですから伝道の業は、同時に人間のわざとも言えます。しかしここに大きな落とし穴があります。語る者にとっても、聞く者にとっても、人間のわざに強調点をおいて語られたり、聞かれたりされるという落とし穴があるのです。ですから努めて「キリストがわたしを通して働かれたこと」以外は語らないようにしなければなりません。
「およそ伝道と呼ばれるもので、新しい地を開拓することのない伝道はない」と加藤先生は語られました。開拓伝道はある人たちにとっては魅力的なようです。ひとつの教会の設立者、創立者になりたい、という言葉さえ聞いたことがあります。そこにはどこか「キリストがわたしを通して働かれ」ることを語りたいという人間の業(ごう)が見え隠れしているように思うのは私だけでしょうか。
いずれにせよ、イエスさまが為してくださったことだけが語られるところに、自らを置き続けることは、自分にとっても、つながる方々にとっても幸いであるということでしょう。
「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」(ローマ15・18,19)