十字架は罪が最も鋭く深く現れ、審きが行われるところである。

これが神と神の民との歴史である。十字架が近づいているところで語られたこの譬えは、ご自身の死を強いる者に対する厳しい審きを語る。十字架は罪が最も鋭く深く現れ、審きが行われるところである。預言者の言葉を聴かず、み子を敬わない。昔のユダヤ人の話ではない。キリストの教会、人間の罪と審きの物語として常に新しく聴くべきである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、198頁

2020年7月3日(金)

聖書に登場する人物を自分に重ねて聖書を読むことは大切なことです。どのように当てはめるのか。どの人物に当てはめるのか。どれ自体が、読み手の心の状態を明らかにします。罪人が登場する時、それを自分に当てはめて悔い改めに導かれるか、それとも自分以外の誰かに当てはめ、自分を安全地帯に置くのか。それは人生そのものの分かれ道でもあると思います。

「『もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。・・・さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。』」(マタイ21・33-40)