望みに生きて待ち続ける者たちが造る祈りの共同体

ポーランドの司祭トゥファルドフスキーの詩集『あなたが祈るとき、神があなたのなかで息をなさる』のなかにこんな言葉があった。「祈るなら、ちょっと待たねばなりません。すべてのものには時があります。預言者はそれを見抜いています。絶えずおねだりばかりしているようなひとは 望みに生きることを止めています・・・待つこともできないのなら、祈らないでください」。待つことと祈ること!

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倒れて手をつきそうになっているのに、祈りつつ待つ。神の答えを! 信じて待つ。神の答えを! 教会はまさにそのようにして望みに生きて待ち続ける者たちが造る祈りの共同体なのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、170頁

2020年6月7日(日)

いま私たちは待てない時代を経験しています。テレビ、携帯電話、メール、コンビニエンスストア、ATM、ファーストフード、などなど、私たちが待たなくてよいようにしてくれました。祈りもそのひとつのように考えてしまうのでしょう。しかし祈りこそ、待つということを経験する貴重な機会であるということでしょう。待てないから祈るということは、もはやそれが祈りではないということを露呈しているということでしょう。

「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ/御自身でわたしに答えてください。わたしは願いました/「わたしの足がよろめくことのないように/彼らがそれを喜んで/尊大にふるまうことがないように」と。わたしは今や、倒れそうになっています。」(詩編38・16-18)