私たちが義とされたのは、つまり、「神との間に平和を得ている」(ローマ第5章1節)のは、ただ単に主イエスの十字架の故だけではない。パウロは、キリストによってのみ義とされるとの信仰は復活信仰であることを明言する。・・・復活抜きの十字架は無意味である。もちろん、十字架にかけられた方の復活であるからこそ、私たちを救い出し、義としてくださる力を持つ。神の義は、神が神らしくすべてのわざを果たしてくださることによって鮮やかに現れる。神が神らしくふるまわれるところで、私たちも人間として正しく生かされる。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、118頁
2020年4月19日(日)
主イエスさまの十字架と復活のみわざによって私たちは義とされました。私たちの罪の身代わりとしてそのいのちを十字架の上でささげてくださったことによって、私たちの罪は赦されたのです。そしてその死なれたイエスさまを父なる神さまが復活させられたことによって、その十字架が神さまのわざであることが明らかになりました。十字架のわざを神さまご自身が承認された、ということで、神さまとの正しい関係が確かなものとされたのです。十字架だけ、また復活だけで、私たちの救いは成り立ちません。この二つのみわざによって私たちは救われました。義とされたのです。
「わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ4・24,25)