「多くのひと」と言ったとき、罪人でないままに死ぬひともあるというようなことを言っているのではない。すべてのひとのことである。だが、自然の死などはひとつもない、という判断は、キリストの死に支えられてのことである。・・・私たちは、もはや自分で罪人の死を死ぬ必要はなくなったのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、89頁
2020年3月22日(日)
すべてのひとは罪人である、と聖書は語ります。義人はいないのです。ですからすべてのひとは罪人として死ぬしかなかったのです。しかしイエスさまはこの地に降ってくださり、罪人のひとりとして数えられてくださいました。そうして十字架において死んで下さいました。すべての人のために死んでくださいました。これによってすべての人も死んだのです。ですからもはや私たちは自分で罪人の死を死ぬ必要はなくなったのです。
「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53・12)
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」(第2コリント5・14)