今まで知らなかった苦難

キリストによって神との間に平和を得たとき、今まで知らなかった苦難の処理の仕方を覚えたということに留まらない。新しい苦難を知ったのである。キリストに従って、み言葉に生きようとすれば、当然のように、今まで知らなかった苦難があることを知る。キリストを知らなかったときのほうが、のんびりとわがままに生きることができた。しかし、今は異なる。主が勧められる愛は、今まで知らなかった忍耐と強いる。パウロは、キリストの苦難にあずかるとは、むしろ、その死にあやかることであるとさえ言う。だが、そこでこそまた希望を知り、それを誇ることさえできるのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、50頁

2020年2月13日(木)

人生には苦難や艱難があります。しかしその艱難を忍耐をもって乗り越えるならば、練達を生み出し希望を生み出す、ということでしょう。あるいは忍耐ということは苦難があるからこそ発揮できることなのだということかもしれません。

しかしそれだけではなく、この苦難や艱難ということがすべての人の人生に起るものと捉えるだけではなく、信仰者だからこそ起って来る苦難や艱難、主イエスさまに従おうとするところに生まれる苦難や艱難、ということをパウロは語っているようです。

主イエスさまを信じ従おうとする者は、その道で起こってくることを否定的なこととは考えずに、忍耐と練達と希望を生み出すものと考えていく、ということです。この誇りとすると訳されていることばは、喜びとするとも訳される言葉です。イエスさまを信じたために起って来る苦難や艱難に出会ったならば、どのような忍耐をい叩くことができるだろうか、どのような練達を生み出すだろうか、どのような希望をいただくことができるだろうかと、楽しみにするのです。そうして生れた希望は決して私たちを欺くことがありません。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5・3-5)