私たちは主に従う弟子である

私たちは主に従う弟子である。イエス・キリストを師匠と仰ぎ、その教えを守って、あの十二弟子たちに倣って生きる弟子の集団である。弟子(ディサイプル)という言葉から、しつけ、訓練、戒規を意味するディシプリンという言葉も生まれているのである。主キリストの弟子らしく生きるということは、いつも私たちが問い続けてよいことである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、48頁

2020年2月11日(火)

聖書は、主を信じる信仰者を「弟子」と呼びます。主イエスさまの弟子です。先日テレビに海外から来た方が酒蔵の杜氏として働く姿が映されていました。来日して職を探し単純に収入目的で応募したところ採用されたのですが、最初の3年は掃除や荷物運びに終始したそうです。杜氏になるといことも弟子となるということを含んでいるのだと思わされました。おおよそ弟子であるといことは、しつけや訓練が伴うものなのです。イエスさまを信じるということは、そういう弟子となるということなのです。私はこの弟子としての歩みを歩めているだろうかと問いつづけなければならないと思いました。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28・19)

「そのころ、弟子の数が増えてきて・・・」(使徒6・1)