主の全存在に注がれた愛と奉仕

伝道の旅を続けていた主と弟子の一行に女性たちが付き添っている。主と弟子たちの身の回りの世話をしたのであろう。この奉仕がなければ旅が可能であったろうか、とさえ思う。そして、この女性たちが、男の弟子たちが逃げたのちにも十字架のもとに留まっていたこと、甦りの朝にも、恐れて閉じこもっていた弟子たちをよそに墓を訪ねて、甦りの主の声を聞いたことを、私たちは知っている。衣服を洗い、食物を供し、時には疲れた主の足をさすったかもしれない。このひとたちの、主の全存在に注がれた愛と奉仕が用いらえてこそ、主の救いの歴史は果たされたのではないか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、47頁

2020年2月10日(月)

「主の全存在に注がれた愛と奉仕」が用いられたこと。ヨハネの21章では復活の主がペテロに「愛するか」「愛しているか」と問われました。おおよそ宗教というと、教えや組織を信じるなどというのですが、ことキリスト教に関してはイエスさまという人格をお持ちのお方を信じるということであって、対象が人格である限りその信じるは愛するに限りなく近いということなのです。その愛が「全存在に注がれた愛」であるか、それともごく限られた部分に対する愛でしかないのか。その違いは、信仰生活の節々に現れてくることではないか、と思わされます。この点に関しては、頭でっかちのプロテスタントキリスト教よりも、身体全体で主を愛するローマ・カトリック教会や正教会の信仰に学ぶことのほうが多いのではないかと思わされます。つまりプロテスタントが偶像礼拝として退けたことごとの中には、確かに退けなければならないものも多いのだと思いますが、身体全体で信じる信仰までも失ってしまったのではないかと思うのです。椅子にふんぞり返って居眠りつつ、たまに携帯に着信があると平気で操作しだすような礼拝風景に比べると、ひざまずき、また立ち上がり、言葉を唱え、司祭の前に出て聖餐をいただく礼拝風景にこそ、真実があるように思えるのは私だけでしょうか。短い人生、いずれであっても真実の礼拝をささげたいと思います。

「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ8・1-3)