倨傲にふくれあがるか、ぐにゃりとしおれるか

いのちの開拓者イエス

・・・私たちのイナーシア(inertia)の罪について語っている。ただ惰性で生きる怠惰な生き方である。・・・高倉牧師は、この病にかかった者は、倨傲にふくれあがるか、ぐにゃりとしおれるか、どのどちらかである、善人ではあるが、確信を持たず、臆病でセンチメンタルであるという。生命の先達であるイエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコによる福音書第六章五〇節)と呼びかけてくださる声に応えてこそ、そのような惰性に生きる自分に克つことができる。自分をその主に委ねれば、何事もなし得るとの確信を得るのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、12頁

2020年1月7日(火)

このマルコの福音書6章の個所には、弟子たちは、嵐を見てではなく、主イエスさまを見て恐れたと記されています。つまりこの世のさまざまな恐怖すべきことが彼らに恐れをを生み出したのではなく、神であるお方が神と見えなかったことが彼らに恐れを生み出したのである、と聖書は語るのです。人生のさまざまな問題が、私たちの人生を難しくすると考えがちですが、本当は神がおられるのに、そのお方が神と見えないということが、人生を難しくしているのでしょう。

イエスさまのおことばは、彼らが恐れていたことの中心から聞こえてきました。恐れていたことが実が神さまご自身であった、ということを知らされるのです。恐れの対象に神の言葉がきこえてきたとき、私たちは新しい平安をいただくことができるのでしょう。

「皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」(マルコ6・50)