主の祈りの冒頭の呼びかけは「我らの父よ」です。それがどういう意味か、わかりますか? それは率直に言って、あなた自身を神の子の一人の立場に置くことです。もっとはっきり言うと、キリストを着るということ、つまり、キリストになったふりをするということなのです。
というのは、もちろん、その言葉の意味を実感した瞬間、あなたは自分は実際には神の子などではないと自覚するでしょう。あなたは真の神の子であるキリストとは似ても似つかぬ存在です。・・・キリストのように装うといことは、ある意味では途方もなく厚かましいことです。しかし奇妙なことに、神は私たちにそのようなふりをせよと命じていらっしゃるのです・・・
・・・ある資質を身につける唯一の道は、すでにそうした性質をもっているように行動しはじめることなのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、480-482頁
2019年12月9日(月)
「ふりをする」ということにも、二種類のものがあります。ひとつは「まやかしが実体の代わり」になることだ、とルイスは語ります。例として「誰かがあなたを助けるふりをしながら実際にはまるで手を出さないといった場合」で、それはよくない種類のことだ、と言います。
それに対してもうひとつの「ふりをする」こととは、「ふりをしていただけなのが、しだいに本物に近くなるという場合」であるといい、例として「誰かに対して本当は親しい気持をいだいていないが、そうあるべきだと思っている場合、あなたにできる一番いいことは、その人に対して気持のよい態度を取り、実際のあなたよりやさしい人間のように行動することです。そうしているうちに、(こういうことはしばしばあります)まえより相手に対して好意をいだくようになります」とルイスは語ります。
イエスさまを信じて神の子とされていながら、イエスさまを身にまとうことをせず、自分の着たい服装ばかりをしている人は、結局のところ、人生も人間関係も祝福の道へと歩みだすことはないでしょう。イエスさまを身にまといたいと思います。
「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ13・14)
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(コロサイ3・12)