神はあなたや私が明日何をしようとしているか、ご存じだ――神を信じている者はこう信じています。けれども私が明日これこれのことをするということを神が御存じだとしたら、そうしないでべつのことをする自由をも私が所有しているとどうして言えるでしょう?
さてこの場合にも問題は、私たちが神について、私たち人間と同じように時間という直線にそって進んでおられると、すなわち私たちと神との違いは神には未来をごらんになることができるが、私たちにはそれができないというだけのことだと考えているところにあるのです。もしもそのとおりだとすると――すなわち、神が私たちの行動を前もって予知しておられると考えるなら、そう行動しないという自由をも私たちがもっているとは考えにくいのではないでしょうか。けれども神が時という直線の上方に、また外側に存在されていると考えてみて下さい。そうすれば私たちが明日と呼ぶものは、私たちが今日と呼ぶものと同じように、神の目に明らかでしょう。
つまり神にとっては、すべての日がいまなのです。神はあなたが昨日ある行為をしたのを覚えておられるのではなく、それを現にごらんになっているのです。なぜなら、あなたは昨日を失っているでしょうが、神にはそれは失われていないからです。
神は明日あなたがすることについても、予知なさるのでなく、まさにそれをごらんになっているのです。なぜなら、あなたにとっては明日はまだきていないでしょうが、神にとってはそれは現に存在しているものなのですから。
あなたはこの瞬間の自分の行為を神がご存じだからといって、自分は自由を欠いているとは考えないでしょう。神はあなたの明日の行為も、同じ意味でご存じです――なぜなら、神はすでに明日のうちに在したまい、明日のあなたをごらんになれるのです。
ある意味では、あなたがある行為をするまでは、神はそれについて知りません。けれどもあなたがそれをした瞬間は、神にとってはすでにいまなのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、441-442頁
2019年11月11日(月)
イエスさまが「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とお約束をくださったのは、共に歩んでいて下さるとともに、神さまにとってはすべての時が「今」である、ということでしょう。
上記最後から2行目から文章は、柳生訳では「ある意味では、神はわたしたちの行為を、わたしたちが実際にそれを行なってしまうまで、ご存知でない、とも言える。しかし、わたしたちがそれを行なうであろうその瞬間は、神にとってはすでに「今」なのである」です。
私たちにとって「今」は直線的時間の中に一点ですが、神さまにとっては直線的時間のすべてを上方からご覧になっていて、その瞬間瞬間を「今」として出会っていて下さる、ということなのですね。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)