宇宙的進化思想の現代人による容認は一種の錯覚です

ふくろうは卵からか、卵はふくろうからかという、あの昔ながらの謎々はあなた方もご存じでしょう。宇宙的進化思想の現代人による容認は一種の錯覚です。ふくろうが卵から出たことにばかり注意を集中していると、そうした錯覚に支配されてしまうことがあるのです。・・・私たちは今日のジェット・エンジンがかつてのロケットの子孫であるということに好んで目を留めますが、ロケットがもっと原始的なエンジンからでなく、ロケットそのものよりずっと完全で複雑なものから、すなわち天才の頭脳から生まれたものであることはなかなか思い出さないのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、395-396頁

2019年10月10日(木)

上記の引用箇所は、西村訳では以下の通りです。
「鶏が卵から出るのか、卵が鶏から出るのかという、昔からあるパズルを皆さん御記憶でしょう。宇宙進化説に対する近代の容認は一種の目の錯覚で、鶏が卵から出てくるにばかり気をとられているところから生まれるものです。・・・わたしたちは、今日のジェット・エンジンが「火矢(ロケット)」の子孫だということに目をとめるのが好きですが、「火矢(ロケット)」の起源が、さらに初歩的な兵器にあるのではなくて、ロケットそのものよりはるかに完全で複雑なもの、すなわち天才を備えた人間にあることは、同じように憶えているわけではありません。」
鶏とふくろう、ロケットと火矢、など面白い違いがあります。

進化論と創造論はいまだホットな対立の中にあります。私はどうもこの二つを同じ土俵の上にならべて、どちらに軍配が上がるのか、といった議論には、どこか根本的な間違いがあるのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。一方は科学の問題であり、もう一方はいのちの問題ではないかと思うのです。もちろんこの二つはまったく無関係というわけではありません。しかし全く同じ土俵の上で論じるのは、誤った拳闘で、結果的に不毛な議論ではないかと思うのです。

いずれにせよ、私も愛する隣人たちも、生かされているこの世界のすべては、愛なる神さまによって創造されたことを信じることは、生きることにおいて大きな力を私たちに与えると思います。また造られたすべてものは、この世界の物質によって造られたということ。このことは、どのような存在であっても、そこに連帯がある、私とつながっていることを謙虚に受け入れることを私たちに得させるのではないかと思います。人類みな兄弟というだけではなく、造られたものはすべて兄弟であるということなのです。環境破壊は人殺しと同じであるということですね。

「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」(エペソ3・9)