キリスト教は慰めから出発する宗教ではありません

キリスト教は人々に悔改めを勧め、罪の赦しを約束します。ですから悔改めるようなことは何もしていないと考えている人、赦しを必要としているなどと思ってもいない人に対しては、キリスト教は(私の知っているかぎり)何ら語るべき言葉をもっていないのです。
真の道徳の法則というものがあって、その法則の背後に一つの力があるということ、自分はその法則にもとり、その力に敵対する者となった―あなたがこう悟った瞬間からキリスト教はあなたに対して本当の意味で語りかけはじめます―決してそれ以前にではなく。
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クリスチャンはまた、神が道徳の法則の背後にある、あの人格を超えた霊であると同時に一つの人格であるということについて、説明してくれます。彼らはまた、この道徳の法則の求めるところにあなたも私も応えることができないが、私たちに代ってその要求に答えて下さった方があること、すなわち神御自身が人となりたまい、神の不興をこうむる立場から人間を救いだして下さったのだと語るのです
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キリスト教は慰めから出発する宗教ではありません。それは上述のように狼狽から始まります。そうした狼狽を経験することなしに慰めに到達しようとしても無駄です。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、392-394頁

2019年10月8日(火)

自分が罪そのものであることに出会った「狼狽」の経験。それがキリストとの出会いを生み出し、救いの道、慰めの道を開きます。この狼狽と訳されている言葉、柳生訳では「衝撃」と訳されています。
教会に来ると、自らが罪びとであるということが、繰り返し語られます。それで憐れんでくださいと、また繰り返し祈ることになります。これがキリスト教信仰のいのちなのです。この狼狽、衝撃を語らずに慰めばかりが語られているとすれば、また慰めばかりを求めているとすれば、いつまでたっても真の平安や喜び、そして慰めを得ることはありません。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」(ルカ18・10)

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(第一テモテ1・15)