善はそれ自身であることができますが、悪は善が腐敗したものです

二元論が正しいとすると、悪の力は悪を悪であるがゆえに愛する存在でなければなりません。けれども現実には悪をただ悪であるという理由で愛する人間には、私たちは会ったことがないのです。・・・悪を調べてみると、何らかの善を誤った方法で追求しているものだということがわかります。ひたすら善のゆえに善を行うことはできますが、もっぱら悪そのもののゆえに悪を行うわけにはいかないのです。・・・善が徹底的に善であることに成功しているという意味では、悪は悪そのものであることさえ、成功していないのです。言ってみれば、善はそれ自身であることができますが、悪は善が腐敗したものです。腐敗は、腐敗していないものがまずあったという前提においてはじめて成立つのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、366-367頁

2019年9月19日(木)

神さまは唯一のお方です。聖書は善と悪の二元論を語っていません。
悪魔や悪霊さえも、人間を惑わし悪の道にいざなうことを「彼らにとっては」「善いことである」として、行っているのです。そこでは善が追求されていると言えるのです。つまりこの世界のすべての造られたものは、すべて善を追求することになっているのです。ただその方法、仕方が間違っていたり、あるいは度を越している、限度を超えている、あるいは足りないということにおいて「悪」が存在しているのです。ですから悪の前提として善があることが分かります。
聖書はその最高善である神さまを宣べ伝えています。教会は唯一まことの神さまを宣べ伝えています。善悪二元論を語っているのではありません。そういう意味で過度に悪魔や悪霊を強調し、まるで東西両横綱のように神と悪魔を語り、その土崩の上で右往左往するのが人間であるかのように語るのは、聖書の信仰ではないといわざるを得ません。

「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4・6)