キリスト教を糾弾する人は

キリスト教を糾弾する人は、現代人が宇宙について知っていることをもしも私たちの先祖たちがしっていたなら、キリスト教などというものは存在することからしてなかったろうと考えているからです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、53f頁

2019年2月4日(月)

神さまを信じるということが、時代遅れで非科学的なことであると人間は思うことがあります。たしかに時代を先取りする思想や、科学を証明することを目的に書かれたのが聖書であり、またその目的を実現するために信仰があるというならば、そうかもしれません。
しかし聖書の目的はキリストを信じりことであり、信仰の目的は人生最大の問題である死をどうとらえるか、そして死で終わる人生をどう生きるか、ということなのですから、科学の目的とするところとは違うのではないかと思います。
科学はなんとか死を遠ざけ、死なないでもよい道を探ろうとするのかもしれません。それに対して信仰は、その死を受けいれ、そうして健やかに生きることを得させるのではないかと思います。
結局ところ、死を恐れてそれを遠ざけようとするならば、かえって生きることを難しくさせてしまうのに対して、逆に死を神さまの御手にゆだねて、死を受容して生きるならば、人生を豊かに生きることができるということでしょう。その道を学ぶことが信仰なのだと思います。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8・35,36)