キリストが私たちをどういう人間にしようと考えておられるか

問題は、じつは私たちがキリストについてどう考えるかではないのです。キリストが私たちをどういう人間にしようと考えておられるか、それが問題なのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、50f頁

2019年2月1日(金)

回心とは、自己中心から神中心に180度の方向変換をすることです。キリスト教信仰に生きるとはこの回心に生きることです。私たちがどう考えるかではなく、神がどう考えるかを大切にすることです。

フランクルは「人生の問いのコペルニクス的転換」として「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。」(V.E.フランクル、『それでも人生にイエスと言う』、春秋社、1993年発行、P27)と語っていますが、このことばにも通じるのではないかと思いました。

イエスさまは、きょう私たちをどのような人間にしようと考えておられるでしょうか。

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」(ヨハネ11・25,26)