あなたの子であるわれらに必要なものをあなたが与えてくださるために、われらはみまえにあります。あなたの子らは、自分自身によっては方策も立たず何もできません。聖霊によるほかはないのです。みことばによってわれらを照らしてください。みことばはあなただけが与えてくださるものです。
C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、185頁
〔主に寄りすがり、決して離れるな。そうすれば、豊かな晩年を送ることになる。〕(シラ書〔集会の書〕2・3)
2018年8月16日(木)
シラ書〔集会の書〕は、新共同訳では旧約聖書続編としておさめられています。旧約聖書続編は、カトリック教会では「第二正典」、プロテスタント教会では「アポクリファ」、あるいは「外典」と呼ばれるところです。もっともカトリック教会でも、エズラ記(ギリシャ語)、エズラ記(ラテン語)、マナセの祈りはアポクリファと呼ばれるそうです。
外典というとまるで悪魔の書のように考える方がおられるようですが、それは大きな誤解です。正典には入れなかったけれども、中間時代の歴史を知るために、また信仰生活の励ましと導きの助けとして、旧新約についで大切に読まれるべき書物です。今日数多く出版されている信仰書に比べても、外典のほうがよほど読まれるべき大切な書物でしょう。19世紀までは一般に翻訳されて旧約と新約の間に置かれていました。
この祈りの書の各日の最初に記されている聖書の個所は、その祈りがなされたときの聖書のことばなのでしょうか。そうとすれば、ブルームハルトは、このように旧約聖書続編からも自由に引用しています。
さて、主に寄りすがる、そうして主から決して離れない、そうすれば、豊かな晩年を送ることになる、とシラ書は語りました。主に寄りすがり決して離れないということはいったいどのようなことをいうのでしょうか。
昨夜は祈祷会で、神のようになろうとする高慢とは何か、どういったことをいうのか、といったことが話題となりました。
高慢とは他人をさばくこと、不必要なプライドを持つこと、などいくつも上げられました。参加者は自分自身のありかたを反省しつつ、分かち合いました。
そのなかで、自分の正義感を振りかざして他人をさばいたり、自分の優位を心の中で誇ることも、神のようになろうとしていることである、ということがありました。まさにその通りであると思います。
ただその逆はどうでしょうか、ということも私の方からの話題としてみました。逆というのは、正義感をもって人をさばくことが高慢なのだから、正義感を持たなければよい、正しさなど持たなくてよい、正しさなど求めなくてもよい、自分の罪性に開き直る、ということは、神のようになろうとしていないことなのでしょうか。正しく生きることのできない自分を自己弁護しているだけなのではないでしょうか。そのような歩みが、豊かな晩年を送ることになるのでしょうか。
神のようになろうとするということは、自分が神となって自分の価値基準の中に生きることなのだと思います。正しいという価値基準の中に生きて、それに寄りすがって生きることは高慢なのだと思いますが、正しくないという価値基準の中にうずくまり、開き直り、それにすがって生きることも、また高慢でしょう。いずれも神さまが不在なのです。
神のようにならないという道は、自分とは絶対他者である神さまを見上げることによってのみ可能です。表面的には、正しく生きていても、あるいはいなくても、常にイエスさまに寄りすがり、イエスさまから離れず、イエスさまのよろこばれることを求め続けることこそ、高慢からは解放された豊かな人生を送る道なのだと思います。
たとえ世間から非難されることがあったとしても、イエスさまが喜んでいてくださるならば、大丈夫です。逆にどんなに世間から称賛されても、イエスさまが悲しんでおられるならば、残念です。