〔復活〕
2014年4月9日(水)
人間に対する神の愛は、死よりも強いのである。
・・・
<死が最後のものである>と考えられるところでは、地上の生命は「すべて」であるか、あるいは「無」であるかのどちらかである。
・・・
これから追究されるべき新しい人間、新しい世界、新しい社会について偉大な言葉が語られる時、この新しいものがすべての現存している生命の否定によってしか存在しえないという場合がある。これこそ何ものにもまさって、死の偶像化をはっきりと示すものである。
・・・
しかし<死の力がすでに破られている>ということが認識され、復活の軌跡が、すなわち新しい生命が造り出されるという奇跡が、死の世界のただ中において光り輝いているところでは、人は自分の限られた生命に永遠性を要求するようなことはせず、その生命が与えるあらゆるものをそのまま受け入れるのである。自分の望むものを<すべて手に入れる>か、あるいは<何も手にいれない>かという二者択一は誤っている。「良いもの」も「悪いもの」も、「重要なもの」も「重要でないもの」も、「喜び」も「悲しみ」も、あらゆるものを受け入れるのである。<死の力がすでに破られている>ということが認識されるところでは、人は、一生懸命に生命にしがみつこうとしたり、また、軽率に生命を投げ捨てたりはしない。人は、限られた時間に満足し、地上にあるものに永遠性を認めようとはせず、死に対しても、死が所有している限定された正当性というものを正しく認識する。そして人は、新しい人間と新しい世界を、ただ死のかなたから、すなわち、死に打ち勝った方の力からのみ待ち望むのである。
・・・
夜は今なお過ぎ去っていないが、朝日はすでに輝き始めている。ボンヘッファー、『主のよき力に守られて~ボンヘッファー1日1章~
村椿嘉信・訳、新教出版社、1986年6月30日発行、176頁ff。
「偶像」とは自分が作り上げた自分の都合の良い神のことです。この世は「死」をその偶像にしてしまっています。だから死んだら終わりだ、といいます。死によって解決をしようとします。死で清算しようとします。あるいは生命にしがみつきます。
死が偶像化されているところでは、生命が正しく理解されないということでしょう。
死はすでに復活によって克服されたのです。ですから偶像化する必要はありません。
生命にしがみつこうとしたり、軽率に投げ捨てたりする必要もないのです。
復活を信じる信仰は、二者択一の生き方から自由にされています。
(祈り)
神さま、与えられているいのちに正しく生きることができるように導いてください。
コメントを残す