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めぐみのパンくず

イエスは、彼に言われた。「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。” 

  ルカ19:9,10

◎取税人ザアカイの救いです。ローマ人からは手先のように扱われ、同胞のユダヤ人からは、嫌われていた人物です。取税人の頭でした。金持ちでした。

◎さて、ザアカイがどうして取税人の頭になったのか、原因は「背が低かった」のにあったのではないかと思います。幼い時から背の低い彼は「チビ、チビ」と見下されていたのでしょう。しかし小さい人は、負けん気が強いのです。ザアカイは「今に見ていろ」と一生懸命、取税人の仕事に身を入れ、そしていつしか頭になりました。しかし、とても孤独な人物だったのです。仕事柄、真の友達はいなかったでしょう。

◎さてザアカイの住むエリコの町をイエスさまがお通りになると言うニュースが入って来たのです。「どんな方か見ようとした」とありますと(原語では「どんな奴」か)イエスさまを見に出かけました。

◎背の低いザアカイは人垣で、イエスさまの姿が見えないとわかると木に登りました。その下を通られたイエスさまが、見上げてザアカイをご覧になり「急いで降りてきなさい、きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と声をかけられたのです。

◎ザアカイは自分の家にイエスさまを招待し、そして自分の罪を悔い改めました。「財産の半分を貧しい人々に、だまし取ったものは4倍にして返す。」と、心の底から自分のしたことを悔い改めたのです。

めぐみのパンくず

“眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。”

        Ⅰテサロニケ 4:13

◎テサロニケ教会は主の再臨を心から待ち望む人たちでした。イエスさまにお会いできる喜びをどんなに楽しみにしていたことでしょう。それゆえその信仰生活はイエスさまにお会いする準備(心の)で満ちていましたが、一つ心配になることがあったのです。

◎自分たちが生きている間にイエスさまが来られると信じていた教会員の心配は、「先に召されたキリスト者はイエスさまとお会いできるのか」と言うことです。そこで使徒パウロは語りました。

◎イエスさまの再臨にまずお会いするのは「先に召された人々だ、彼らは目覚めさせられてイエスさまとお会いするのだ」と言うのです。キリスト者となってこの地上を去る者は死ぬということよりも「眠っている」と表現されます。長くても、短くても寝覚めは寝覚めです。それが第一。

◎その後、地上に残っているキリスト者が雲の中に引き上げられるというのです。「号令」があり「み使いの頭の叫び声があり」「ファンファーレ」がなるのです。信仰のない人々にはこれらは聞こえないことでしょう。

◎空中で主とお会いし、いつまでも共に主とある世界への出発の時です。パウロの時代、このことは起こりませんでした。救われる人の人数が満ち溢れていなかったからでしょう。2000年以上たちました。再臨は近いと思います。テサロニケの兄弟のように主を待ち望む者でありますように。

めぐみのパンくず

兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください。”

                 Ⅰテサロニケ4:10

◎テサロニケ教会の兄弟姉妹は使徒パウロの望む所を歩んでいました。苦難の中でも信仰を守りイエス様の再臨をかたく待ち望んでいたのです。そのような兄弟姉妹に、「ますます、そのように歩んでください。」VS1と言いここでは兄弟愛について、「さらにますますそうであってください」と言っています。テサロニケ教会は「互いに愛しあうことを、神から教えられ、マケドニヤ全土の兄弟に実行していたのです。兄弟愛とは原語で「兄弟」と「愛」が一つになった「フィラデルフィア」と言う言葉が使われています。アメリカのペンシルバニア州の町にこの名前の都市がありますが、キリスト者がつけた名前です。うるわしいですね。

◎それはまた、パウロの愛の命令を実行するためでもありました。その命令とは「落ち着いた生活」「仕事に身を入れ、手ずから働く」ことでした。再臨信仰に燃える教会の信徒の中にはイエス様が来られるなら「待つことだけに専念しよう」と、仕事を辞めた人もあったのではと思われます。しかし、パウロの教えは、イエス様の再臨は日々の与えられた仕事の中で待つものだと言うのです。与えられたものを放棄してはいけない。宗教改革者たちは「仕事は天分」と考えました。仕事に忠実、正直に働く姿は、外の人々、ノンクリスチャンに向かって大きな証しになるのです。このことにおいて乏しくなってはいけないと。

めぐみのパンくず

“神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。”          テサロニケⅠ4:3

‟神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、清潔を得させるためです。“

                                                                                 テサロニケⅠ4:7

◎「終わりに兄弟たちよ」と言っておいて使徒パウロの話は長く続きます。使徒パウロはテサロニケ教会員の歩みを喜び「ますますそのように歩んでください。」と願いました。そして、イエスによって授けた命令を思い出させるのです。それは神さまのみこころである、聖さということでした。

◎世界には多種の宗教があり、その信者がいますが、「聖徒」と呼ばれるのはキリスト者だけです。キリスト者はすべて聖い存在とされなければ聖なる神の御前に立つことはできません。ここでは「自分のからだ」を聖く尊く保つようにと勧めます。「心」と言っていません。神を知らない異邦人のよう「情欲におぼれるな」というのです。

◎「からだ」について見てみましょう。原語は「妻」とも訳せる言葉です。「品位ある結婚生活を送って欲しい」とリビングバイブルにと。「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように。」と新共同訳は訳します。神さまは人間関係を最初に夫婦として創造なさいました。親子でもなく、友情関係でもありません。それは人間関係の中で最も親密で離れられない存在です。ですから、「不品行(ポルネイアス)を避け、情欲におぼれず」と勧めるのです。テサロニケ教会は夫婦のキリスト者が多かったのでしょうか。聖い夫婦愛は聖霊が喜び導いて下さるものと思います。