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めぐみのパンくず

あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しく振る舞いました。” “父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光に召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。”Ⅰテサロニケ2:7、11,12.

◎ピリピの町で信仰の闘いの激しさを終えたパウロ、シルワノ、テモテたち。その中でテサロニケの教会の兄弟姉妹に伝えた福音は、神にゆだねられたものにふさわしく母のごとく、父のごとく語ったと言うのです。

◎母がその子を世話するように(リビング)優しく振る舞ったと言います。穏やかに聞こえる言葉ですが8節を読みますと「私自身のいのちまでも~与えたいと思った」と言うほどに激しいものでした。母の子に対する思いは命がけと言うことでしょう。テサロニケの教会員をどれほどいとおしく思っていたか伝わる言葉です。

◎母のような思いだけではなく、父のごとくテサロニケの教会員を愛しましたとも言います。なぜなら、神さまにふさわしく歩んで欲しいとの願いからです。ふさわしく歩むとは、神さまのみこころに沿う、よろこばれる信仰生活を送って欲しいとの願いです。そのためにパウロがなしたことは情熱をもって「慰めを与え」、「おごそかに命じた」とは、鼓舞し激励したというのです。

◎優しい母、父の権威をもって厳しさの中に、信仰生活を導いた使徒パウロの勧めは、時代を超え全ての時代の信仰者にとって大切な勧めなのです。それはイエス様の愛の現れだからです。

めぐみのパンくず

あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり・・”

Ⅰテサロニケ1:9

◎生けるまことの神さまに信仰もって出会うことは変化がおこります。その信仰の姿は言わず語らずともマケドニヤとアカヤのすべての信者の模範となり、その地方のあらゆるところに伝わったとパウロは証言するのです。なぜテサロニケの教会員はそのようになれたのでしょう。

◎それは「使徒と使徒の福音を受け入れた」vs9ことから始まりました。大きな喜びがわくメッセージだったのでしょう。第二に偶像から立ち返ったのです。これは真の生ける神の存在を信じなければ不可能なことです。第三に「神の怒りから救い出してくださる主の再臨を待ち望む」ようになったからなのです。ゴールが見えていました。

◎次に使徒の語った福音を受け入れた人々の歩みを見てみましょう。これも三つ①神に愛され選ばれた民である歩みです。②しかも、福音が神の力と聖霊による強い確信との中で。車の両輪のように二つは信仰を前進させるのです。③良き模範となりました。「あの人の信仰に倣いたい」と思えるキリスト者を知っていることは何と幸いなことでしょう。

◎最後にテサロニケの教会員は「聖霊による喜びをもって」苦難の中でも教会生活を送っていたのです。信仰生活はバラ色の人生ではありません。苦難の中での起居振る舞いがいかに大きな証しであるかを教えられるところです。

めぐみのパンくず

私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に・・・・信仰の働き、愛の労苦・・望みの忍耐” Ⅰテサロニケ1:2、3

◎使徒パウロのテサロニケ教会における三つの思いを見てみます。初めに、「感謝している」ことでした。パウロはテサロニケの教会を思うと神への感謝の気持ちがあふれ出たのです。二週間の間に出来上がった教会、神への感謝は集う教会員すべての兄弟姉妹の存在にありました。

◎その故に「絶えず」覚えてパウロは祈ることができたのです。祈られているキリスト者は幸いです。ある文章に「幸いな牧師とは誰か、信徒に祈られている牧師である。幸いな信徒とは誰か、牧師に祈られている信徒である。」と書かれていましたがしかりです。キリスト者が顔を会わせて集う時間は短いですが、祈られている時間がそれ以上であるならば何と幸いでしょう。あなたを導いた人(天に召された人もあるでしょうが)は祈りのときに覚えていることと思います。

◎第三にテサロニケ教会員の三つの事をパウロは神の御前に思い起こしています。信仰の働き、愛の労苦、キリストへの望みの忍耐です。キリスト者の働きはどんな小さいと思えるご奉仕も信仰のうちにあるのです。愛には労苦がともないます。原語のことばには「骨折り」との意味があります。しかし、この労苦は決して忘れられることがありません。望みには忍耐が必要です。決して失望に終わらない希望は、時いたりて実現します。待っていて良かったと思えることを知っている者は幸いです。

めぐみのパンくず

パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。”

              Ⅰテサロニケ1:1

◎使徒パウロは21の手紙のうち13の手紙を記しています。

◎手紙の書き出し(挨拶)を見てみますと、まず差出人が書かれています。13の手紙にはと4つのタイプが記されています。①ほとんどの手紙に書かれていることですが、神の福音によって、神のあるいはキリストのしもべと➁ガラテヤ書では、教会員はパウロの使徒性を疑うようなところがありました。それに対して「使徒となったのは人間的なものではない」と厳しい口調です。③囚人オネシモのとりなしの手紙でピレモン宛に「キリスト・イエスの囚人」からと書きます。④テサロニケ教会ですが、パウロが神さまから選ばれた使徒であるかどうかは一切省かれて、「パウロ、シルワノ、テモテ」と主の働き人の名が記されています。テサロニケの教会員は名前だけでその存在が理解できたのです。

◎内容は、神の恵みがあるように、そして平安があるようにとの二つです。「恵み」とは神が一方的に注いで下さる、ふさわしくない者に注がれるものです。それはまた神と神の民との契約をも表します。福音は分け隔てなく、ふさわしくない者に与えられるものです。「平安」とは神さまの平安です。イエスさまは「世が与える平安とは違う」ヨハネ14:27と言われました。死する時でさえ揺らがない平安です。恐れの時にこそ、与えられている平安を確認したいものです。

めぐみのパンくず

もしひとりなら、打ちまかされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ拠りの糸は簡単には切れない。”       伝道者の書 4:12

◎人という字は互いがもたれ合った存在に見えます。一つが外れれば両方ともに倒れてしまいます。人間が一人では存在できないことをし示しているのでしょう。ここではひたすら富を求める人物のことが言われていますが、その渦中「誰のために労苦し楽しみもなくているのか」と真摯に自分に問うことがないのです。ルカ福音書に金持の農夫の話が出てきます。大きな蔵を建て「さあ安心して食べ飲み楽しもう」と、しかし神は言われます。「今夜、お前の命は取り去られる、そうしたらお前の用意したものは誰のものになるか」と。

◎伝道者は「二人は一人にまさる」と言います。一人が倒れると一人が助け起こす。パレスチナの夜砂漠で休む時身体を温めあえる。C協力してことにのぞめる。と言うのです。二人の心が一つになって困難に望むことの幸いを覚えます。

◎三つ拠りの糸に目を向けましょう。人間的に見ますと、三人はよほど気が合っていなければ物事をやりにくいことがあります。2対1になる場合があるからです。しかし、二人のキリスト者が心合わせるならイエスさまも同行して下さると言うのです。マタイ18章19節に「まことに、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。とあります。20節では「ふたりでも三人でも」と。教会の祈りにつながっていくのでしょうか。一人になりたがる、肉の性質に気を付けたいものです。