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めぐみのパンくず

この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書の言葉が成就するためであった。”                ヨハネ20:36

◎イエスさまは「頭をたれて、霊を」神さまにお渡しになりました。ルカだけは「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」と十字架上の第七番目のことばを記していますが、地上の生涯を終えられました。

◎二人の犯罪人の足のすねは兵士たちが折りましたが(とどめをさすために)イエスさまのすねは折られませんでした。もう息を引きとられていたのです。それは聖書の言葉が成就されるためだったと! 何が成就したのでしょう。

◎第一に神の義はどんなことがあっても砕かれることがない、また、その神さまを信じる者の正しさも砕かれることがないと言うのです。詩篇34:19には「正しい者は悩みが多い」と書かれ、しかし、「そのすべてから救い出される」という約束が続きます。キリスト者は故意に罪を犯すことはないでしょう。しかし、失敗はします。ですからそれに気づいたときは、正しく悔い改めるのです。神さまと、その神さまを信じる信仰者の義は砕かれることがないのです。

◎第二にイエスさまのご人格は砕かれなかったと言うのです。創世記のヨセフの話には、神が共におられたのでその苦難に耐えることができ、イスラエルを救うことになりました。そのヨセフが臨終のとき遺言します。「自分の骨を持っていけ」とそれはイスラエルの人々にヨセフの歴史を忘れさせないためでした。神さまを信じて正しく生きた人の見本でした。

めぐみのパンくず

“この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。 イエスは酸いぶどう酒を受けとられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。” ヨハネ19:28,30

◎十字架上の五番目と六番目のお言葉です。「わたしは渇く」とイエスさまは言われました。喉がカラカラだったことは当然ですが、霊的に「魂への渇き」人々の救いを願っての叫びでした。

◎イエスさまは十字架に架かられる前から喉の渇きを覚えておられました。引きずり回される裁判、鞭打たれ、十字架を背負ってゴルゴだの丘への行進。マルコ15:22では兵士が見かねて「没薬を混ぜたブドウ酒を与えようとしたが」飲まれませんでした。なぜでしょう。十字架における救いを完成されていなかったからです。

◎「渇き」はこの世だけでの問題ではなく、永遠につながる所の問題です。マタイ25:にはすべての人が御前に集められて「羊と山羊」を別けられる時が来ることが記されています。イエスさまのお言葉のその評価は「最も小さいもに(子供だけではない)したものはわたしにした」ですが、その対象の一つに「わたしが渇いていた時にわたしに飲ませ」と言っておられます。そこには、イエスさまの名によって成された愛の業が列挙されていますが、このこともイエスさまの渇きを癒すことにつながるのです。

◎「渇く」と叫ばれた後、酸いぶどう酒を受けられ「完了した」と息を引き取られ霊を神さまにお渡しになりました。十字架は救いを完成したのです。今も天の祈りの場で、魂を渇くほどに慕っておられるのです。

めぐみのパンくず

イエスは、母とそばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。”

ヨハネ19:26,27

◎十字架上におけるイエスさまの七つのことばの第二番目のお言葉です。母マリヤと弟子ヨハネに向かって語られました。

◎まず母マリヤに向かって、ヨハネは「あなたの息子」ですと。自分の子が十字架刑に、現代的に言うと絞首刑や電気椅子の前に立たされている母マリヤです。かつっては、永遠の王国を夢見てイエスさまを胸に抱きよろこびの讃美歌を歌ったマリヤでした。しかし今は、宮参りに行った時、イメオン老人が告げた言葉「剣が彼女の胸を刺し貫く」の現実をかみしめていたことでしょう。

◎ヨハネに対してイエスさまは「そこにあなたの母がいます」と言われます。他の弟子たちがみんな逃げてしまったにかかわらず、ヨハネはマリヤと共に十字架の前まで行きました。イエス様に対する真の友情(信仰による)の姿をみます。楽しい時だけでなく、心底困った時にそばにいてくれる人が本当の友ですが、ヨハネはどうしてそれが出来たのでしょう。彼が自分のことを「主に愛された弟子」と言っていますがそれを心底確信していたからだと思います。

◎母なる教会と言います。そこには真の友情がはぐくまれます。しかし、なくてならないものは十字架です。そこへ教会は、兄弟愛は人々を誘うのです。