月別アーカイブ: 2014年6月

めぐみのパンくず

“だが弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか”

ルカ15:32

◎父について考えてみたいと思います。よく言われることですが、日本には素晴らしい母親像は見られても父親像は見つけにくいと言われます。そこで、キリスト者が信じる父なる神から、真の父とは!を考えましょう。

◎旧約聖書の父なる神は義なる神を徹底されたお方だと言えるでしょう。(他のご性質も表されていますが)。その代表がモーセを通して現された十戒です。聖なる神さまの前に出て行くためにはそのままで出て行くことはできませんでした。厳しいお方出ることを聖書は語ります。罪びとがイエスさまの救いにあずかるためにはここを通らされます。信仰によって義とされること、神の子どもとして新生する前に、神の前にそのままでは出ていけない自分を知らされるのです。律法の前に立ちはだかることが出来なかったイスラエル人、聖なるお方に触れただけで打ち殺されたウザ(Ⅱサム6:)。父なる神はご自身が義であるお方を現されます。

◎新約聖書の父なる神は愛なる神さまを全面的にあらわされます。(ヨハネ3:16)罪に死に滅びゆく存在であった人間を赦し、受け入れて下さる父です。放蕩息子の帰還の記事はそのことをよく現したたとえ話ですね。

罪に死に、律法の前に立ちえず、己が欲望のまま生きていたものを、悔い改めて立ち返るものを無条件で受け入れて下さる父なる神さまです。行きつくところは滅びであり、向きを変えて父なる神に立ち返るものを抱きしめてくださり、汚れた着物(人格)を着換えさせ、裸足で汚れた足(間違った歩み)に靴を履かせて下さり、神の子となる契約の指輪をはめて下さるお方です。そして祝われるのです。

めぐみのパンくず

“イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。”

                  ヨハネ12:47

◎イエスさまの話を聞き、しるしを見たにかかわらず信じなかったユダヤ人たちを、旧約の預言者イザヤの語った通りだとヨハネは言いました。イエスさまより700年前、イザヤはイエスさまを見ていたのです。38節40節のみことばは、イザヤ53章と6章からのものです。そこには十字架を目の前で見たかのように記されてあり、また預言者イザヤ自身が神さまの栄光の前に、自らの罪深さを熟視させられおののいた姿が記されています。興味深いことはヨハネがその二つの出来事を「イエスの栄光を見た」と言うのです。

◎ユダヤ人の中には信じた者もありました。しかしながら告白までには至らなかったとヨハネは言います。原因は仲間外れにされることを嫌い、人を恐れ、神さまからの栄誉を望まなかったからだと。そのユダヤ人たちに声を大にしてイエスさまは語られました。未来のことについてです。

◎「終わりの日にさばくものがある」と未来をさして。イエスさまご自身は、不信仰をさばくことはされませんが、「わたしが話したことばが」さばくと言われました。なぜならイエスさまの語られたみ言葉は父なる神さまの命令のことばだからです。すべてのものは神のみ言葉の前に引き出されるのです。ですから、キリスト者は常にみことばに触れていなければならないと思います。

◎私たちキリスト者のさいわいは、父なる神さまがイエスさまに語れと言われたみことばが「永遠のいのちであることを知っているということです。

◎預言者は来たるべきイエスさまを見ました。キリスト者は来て下さったお方を見、お会いするべきイエスさまを見ているのです。

めぐみのパンくず

“まことにまことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。”     ヨハネ12:24

○十字架に架にかかられる日が近づいて来た時、ギリシャ人たちがイエスさまにお会いしたいと弟子のピリポに願いました。ピリポはアンデレとイエスさまにそのことを告げに行きました。その時上のみ言葉を語られたのです。

○イエスさまはご自分を一粒の麦にたとえておられます。「地に落ちて死ぬ」と。麦は地にまかれなければ実を結びません。その時、麦は麦本来の形を失ってしまいます。土と水と日光によって形が崩れます。しかし、そこから、新しい命が生まれるのです。イエスさまが一粒の麦となって死んで下さったがゆえに、神さの一人子の姿を壊しされたがゆえに、新しい命が生まれ始めたのです。

○新しい命は多くの実を結びます。これは信仰者へのメッセージでもありました。キリスト教信仰は死ねば「多くの」実を結ぶためのものなのです。

○イエスさまは弟子たちに「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て自分の十字架を負ってついて来なさい」と言われました。十字架は死の道具ですね。「これは自己否定であり、己に死ぬことだ」とある説教者は言いました。人間は罪に死んでいたものでしたが、、イエスさまを信じて神の子とされ新しい命をいただきましたが、イエスさまについていくために最も大切な事は自分に死ぬことなのです。霊的には神さまの子どもとして生かされたものですが、信仰生活においては日々死んで、自分ではないイエスさまが私のうちに生きておられるガラテヤ2:20とお任せして行く信仰なのです。結果、御霊の実を結び、福音の子どもたちが与えられていくと言う実を結ぶのです。死んだら実を結ぶ~忘れないようにしたいと思います。