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めぐみのパンくず

「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことを知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」ヨハネ9:25

安息日に癒しの業をなされたイエスさまをユダヤ人たちは「罪びと」と断定します。その言葉に癒された人の言ったのが上のみ言葉でした。二つのことを学びます。

「知らないことを知らない」と言い切ることができるようにということ。「あなたがたは、あなたがたの舌に対して私は知りませんということが出来るよう教えなさい。」と古いユダヤ人格言にありますが、知ったかぶりは必ず後に悔いを残すこととなります。また勇気もいる事でしょう。しかし、この人は「知りませんと」言ったのです。

それとは対照的に、「知っている事は知っている」と言える存在でありたいものです。キリスト者はイエス・キリストの証し人です。イエスさまのこと、イエスさまが自分に何をして下さったか、人に問われた時、確信をもって「知っています」と言えるお互いでありたいと思います。興味深いことに「ただ一つのことを」と付け足しています。この一つのことだけで十分だと言わんばかりです。「目を開かれる」「心の眼を開かれる」もっと言いますと「信仰の眼が開かれた」ということがどれだけこの人の存在そのものに大きな意味があったかがわかります。なぜなら見えることによって人生が全く変わり、空間だけでなく、未来もはっきり見えるようになったからです。

今見ているものが、人の生き方をリードして行くでしょう。時間と共に消えて行く物を見ている人はそれと共にその人も消えて行くのです。しかし、永遠のお方を見るようになった人は、永遠へと導かれるのです。イエスさまを見続けて行きましょう。信仰が「惜しむらくば見たのにすぎぬ」に終わりませんように。

めぐみのパンくず

“あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。”ヨハネ9:21  “父たちよ、私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが初めからおられる方を知ったからです。”Ⅰヨハネ2:13

◎イエスさまに目を開けられた人は、センセーションを引き起こします。人々が驚き、パリサイ人たちの前に連れて行くのですが、パリサイ人たちは、安息日に癒しのわざをされた、イエスさまにますます敵意を持つのです。罪びとにそのような業が出来るはずがないと言うのです。しかし、罪びとにこんな業はできないと言う人も起こり論争になりました。そこで、眼をあけられた人の両親がひっぱりだされることになったのです。

◎しかし、その両親もユダヤ人たちを恐れます。村八分にされるのが恐ろしいのです。そこで言った言葉が「あれはおとなです。自分のことは自分で話すでしょう」と。

◎信仰者の生活は成長して行くのだと聖書は言います。神さまの子共として生まれ、イエスさまの身の丈まで成長して行くのです。

◎ヨハネ第一の手紙2章に「子供たちよ」「青年たちよ」「父たちよ」との呼びかけがあります。そこで父たち、大人に向かって記されていることばは「初めからおられる方を知った人」なのです。子供たちには「み父を知ったのです」と書かれています。その違いは「初めからおられる方」をです。

◎信仰生活が進んで行きますと、神さまがいかに深くキリスト者と関わっていて下さったのかがわかって来ます。「罪が赦された」で終わらない、神さまの生涯にかかわるご計画が理解されて行くのです。世界の創造の前からおられるお方の存在がわかるのです。

◎もう一つのおとなのしるしは、真理のためには一人になっても良い覚悟ができることです。この人はユダヤ人から追い出されることをも良しとしました。

めぐみのパンくず

“イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」ヨハネ9:3

◎視力を失うことは、行動力の80%を制限されると言われます。生れながらの視力障害をもったこの人の不自由さはいかばかりであったことでしょう。しかし、その人の前をイエスさまは通られたのです。「イエスは道の途中で」とありますが、私たち一人一人の前をも通って下さったからお会いできたのですね。

◎しかし、弟子たちのイエスさまに対する質問は辛辣なものでした。この盲人に聞こえていたのでしょうか。聞こえていたとすればいっそうひどい言葉だと思います。「盲目に生まれついた」のは、両親の罪の結果かですか、「この人」の罪の結果ですかと問うのです。必罰的考え、また、生前に罪を犯したのでは・・との問いは、因果応報的な響きです。イスラエルの国でも、そんな考え方があったのかと驚きです。

◎それとは反対にイエスさまのお言葉は何と慰めに満ちたものでしょう。「神のみわざが、彼の上にあらわれるためなり」(口語訳)と言われました。希望の預言者イザヤは救い主の到来の時、その特徴は「盲人の目を開き」と預言しました。イエスさまはつばきで泥をつくり盲人の目に塗られます。全能のお方の目薬のようです。そして言われるがままに、この人はシロアムの池(遣わされた者)に行って洗いました。光が取り戻されたのです。

◎キリスト者は信仰の目が開かれた存在です。イエスさまに信仰の目を開いていただいて、今まで見えなかたものが見えるようになりました。自己の真相がわかり、そのことの為に十字架の赦しがわかり、神さまの子供とされ、神と共に歩む生涯に入れられていることがわかり、天の御国が見えるのです。

めぐみのパンくず

“まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。”ヨハネ8:58

8章においてイエスさまは三度「まことに、まことにあなたがたに告げます。」と語っておられます。34節では警告的に、そして、51節ではみことばを守るものへの結果と、58節には存在の永遠性を語られました。イエスさまはイエスさまに反抗する人たちとの対話においてさえ、真理を教えて下さるお方です・

信仰は見えないものを見えるようにしてくれます。その実例。信仰の父アブラハムが見ていたもの、それはやがて来てるべきメシヤ(救い主)の到来でした。時代的に言うとアブラハムとイエスさまが地上に来られた時間的な隔たりは2000年近いものです。そんなに以前にどうして見る事が出来たのか、創世記における彼の信仰過程をみますと、15章の契約の中で、22章のイサクをささげる出来事の中で、救い主の予表を見ることが出来ます。また、信仰による選び、不従順、悪への裁きなども踏まえて、やがて来たるべきお方が到来なさる事を信仰によってとらえたのです。

イエスさまのお言葉を見ますと、「アブラハムはわたしの日を見ることを思って大いに喜びました。~見て喜んだのです。」vs56と語っておられます。この喜びました、喜んだ」と言うことばは、復活なされたイエスさまが、ユダヤ人を恐れて部屋に閉じこもっていた弟子たちの所に入って来られ手と脇腹の傷を見せ「平安があるように」と言われた時、「弟子たち主を見て喜べり」ヨハネ20:20の「喜び」と同じ言葉が使われています。

復活の主に拝して喜んだ弟子たち、その喜びをはるか2000年前にアブラハムは自分のものにしていたのです。私たちキリスト者は、アブラハムと同じように弟子たちのように、みことばと聖霊の示しによってこの事実を確かなものとされているのです。