●『愛と自由のことば』より(16)

「わたしには悩みを聞いてあげるような友はあったが、わたしの悩みを慰めてもらうようなネパールの心友は残念ながら一人もありませんでした。」(岩村昇)

 ネパールにて医療伝道に生涯をささげた岩村昇先生は、最初ネパールの山の中に入って1年目にスランプにおちいったと言います。そんな時ネパール合同ミッションの総幹事リンデル氏の問いかけが心に響きます。リンデル氏の「悩みを聞いて上げるだけでなく、悩みをうちあけてあなたが慰めてもらえるような、そういう友をえたか」との問いかけに、自分にはそのような友が一人もなかったことを振り返られたのです。
 イエスさまは弟子たちを遣わされるとき、杖一本のほかは何も持たせないで遣わされました。何も持たないで遣わされることは、遣わされる先々で施しを受けなければならないこととなります。弟子たちは人びとに援助を与える者として遣わされたのですが、同時に人びとから援助を受ける者としてイエスさまに遣わされているのです。これは愛するということはいったいどういうことであるのかをイエスさまは弟子たちに教えておられるのではないでしょうか。
 愛されるということを前提としない、あるいは受け付けない愛は愛ではないということでしょう。愛は一方通行ではありません。愛するということと愛されるということが渾然一体となっているところに、イエスさまの宣教があります。


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