●『愛と自由のことば』より(15)

「大盤石(だいばんじゃく)上の金縛りであります」(三谷隆正)

 教会の集いが信仰の薄さと罪深さを嘆き悲しむことばかりに終始し、重苦しい空気と不自然なため息に満ちている状況を憂い、なぜ力強い喜びの歌声が少しも響いてこないのかと問う無教会キリスト者・三谷隆正(旧制第一高等学校教授、1889~1944)のことば。
 「もっと自分の信仰を立派なものにして、その立派な信仰のおかげで、それを自慢のたねにして、堂々大手を振って天父の台前に出ようというのですか。それならば信仰というものは神さまに信頼することでなくて、自分の腕前に自恃(じじ)することになるではありませんか。その自誇自恃を棄てることが信仰です。・・・われらの薄信弱行もわれらを大愛のみ手より放つこと能わずです。安心であります。大盤石上の金縛りであります。風が吹こうが雨が降ろうがびくともするものではありません」と続きます。
 私たち福音派はきよめ派(メソジスト、ホーリネス、などなど)の流れの中にありますので、どこか自分の中の倫理的なきよさ、信仰生活の姿、といったものを大切に考える癖があります。それも大切ではありますが、それは結局のところ自己中心です。信仰はそういう自己中心からも解放されひたすら神さまを仰ぎ見ることにあります。神さまは私たちの薄信弱行、つまり信仰薄く行いが弱いことなど誰よりもよくご存じです。つまり私以上にご存じなのです。そのうえで愛していてくださるのがキリストの愛です。


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