●26聖人を訪ねて(7)

 十字架の形になっている記念碑の下の部分には7本の十字架と「人若し我に従はんと欲せば、己を捨て十字架をとりて我に従ふべし マルコ第八章」の文字が刻まれています。
 キリストに従う道は自分自身を捨てて十字架を負う道であるとの聖書のことばです。殉教者たちを支えた言葉であり、多くのキリスト者が大切に聞き取ってきた言葉です。
 この聖書の言葉には続きがあります。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことが出来るでしょう」(マルコ8章35~37節)。
 「いのち」はキリストに従うためには捨ててしまってもよい価値のないものであるということでは全くありません。いのちは大切なもの、価値のあるものだから、本当に大切にするために、いのちを捨ててキリストに従うのだ、というのです。いのちに固執してそれを自分の手から離さないというのは、いのちを本当に大切にしていることではないのです。いのちは神さまのみ手の中に置いてこそ、本当に大切にすることが出来るのです。
「いのちが一番大切だと/ 思っていたころ/生きるのが苦しかった/いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」(星野富弘)
 殉教にむかう26聖人の心は、いわゆる日本人の切腹の心境とは全く異質な、神さまにゆだねる自由と喜びに溢れたものだったに違いありません。


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