●26聖人を訪ねて(3)

 猛暑の中、屋台のアイスはかなり魅力的な存在感を放っていましたが、先を急ぎました。次に訪ねた所は平和祈念像から徒歩で5分ほどのところにある「永井隆記念館」と「如己堂」。第1号長崎名誉市民である永井隆は明治41年(1908年)に島根県松江にて生まれました。長崎医大に学び主席での卒業後、満州事変、日中戦争に軍医として従軍。昭和9年に結婚、二人の子をもうけます。放射線医学を専攻したことが影響してか、昭和20年6月に慢性骨髄性白血病で余命3年と診断されました。白血球が正常値7千に対して10万以上あったそうです。その夏8月9日に長崎に投下された原子力爆弾によって被災します。自ら右側頭動脈切断による出血をおして三日間救護活動にたずさわりました。三日目の11日に自宅に戻ると自宅は焼失しています。奥さまは亡くなっておられました。遺骨を埋葬し、翌12日に救護班を開設。巡回診療を2か月間行います。15日に敗戦。翌年21年の終り頃から病床に臥し23年の夏以降は長崎医大教授を休職。26年5月1日召天。享年43歳。
 永井隆は昭和9年の結婚の2か月前にカトリックの洗礼を受けています。戦後病床に臥しながら執筆をつづけ『長崎の鐘』など多くの著作をのこしました。その執筆場所となったのが「如己堂」(にょこどう)です。2畳一部屋の平屋で、命名はイエスさまのお言葉である「自分(己)のように(如)隣人(人)を愛す」(ルカ10章27節)から。
 「廃人の私を、わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった・・・寝たきりの私と幼い二人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である」(永井著『平和の塔』より)。人間、真実に生きるのに必要なものはわずかなもので十分なのかもしれません。


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