●『今日のパン、明日の糧』(ヘンリ・ナウエン)より(27)

「イエスは『十字架を作りなさい』とも『十字架を探しなさい」ともおっしゃいませんでした。私たちの誰もが負うべき十字架をもっています。・・・それを進んで自分の十字架として認め、背負う意志があるでしょうか。」

 ナウエンは上記の言葉に続いて「勉強が不得意であったり、障害を負っていたり、あるいは鬱状態で苦しんでいたり、家庭でいざこざがあったり、暴力や虐待の犠牲者であったり」と私たちが与えられているであろう十字架を数え上げます。心をしずめ、謙遜をもって自分の人生を振り返るならば、すでに与えられている自分の十字架が見えてきます。
 自分の十字架を認め背負うことは簡単なことではありません。むしろ目をそむけようとします。目をそむけるためにこの世の快楽に心を向けようとすることがありますが、それ以上に仕事やボランティア活動、あるいは教会の奉仕など、いわゆる「十字架」を作り出そう、探し出そうとすることもあります。それらには労苦がともないますのでたしかに十字架ではあります。しかしすでに与えられている自分の十字架から目をそむけ、自分の十字架ではないものを背負ったところで、イエスさまのみ心に生きていることになりません。結果自分の人生を生きていることにならず、平安や喜びは見出せないでしょう。
 すでに与えられている「自分の」十字架を進んで認め、背負う意志が私たちにあるでしょうか。


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