●『今日のパン、明日の糧』(ヘンリ・ナウエン)より(29)

「私たちの社会では、自分が選ばれているということは、他の人々は選ばれていないことを意味します。けれどもこれは神の場合にはあてはまりません。私たちが選ばれているということを明らかにするために、神のみ子を選ばれました。」

 聖書は、キリスト者のことを神さまに選ばれた者であると語ります。旧約聖書においてはアブラハムから始まるイスラエルの人びとのことを「選民」と位置付けます。新約聖書においては、主イエスさまを信じる者に向かって「神に選ばれた者」とイエスさまは語られました(ヨハネ15章)。「選び」という言葉はキリスト教会において少し特別な意味を持ってきました。
 しかしこの「選び」が、いわゆる「選民意識」となり、優越感を生み出し、選ばれていない(と勝手に思い込んでいる)人びとを差別しているとすれば、聖書を大きく逸脱することになります。
 神さまの選びは、他の人びとの選び、そしてすべての人の選びへと開かれています。神さまが私を選んでくださったということは、選ばれる理由を何一つ持っていない私を選んでくださったということへの感謝、そしてその選びがゆるぎないものであるという安心感をひたすら生み出すものです。この感謝と安心感は自分ひとりのものではなく、すべての人にも開かれているものであることを忘れないようにしましょう。


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