●デボーションからの黙想3~リュティ『この日言葉をかの日に伝え』より(10)

キリスト者の隣人愛の特色は、何よりも、それが命じられ要求され得る愛だという点にある。・・・そのような愛は、それが感情に由来するものではないということによってだけ、可能なのである。愛に関しては、神が命令者である。
(リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』より)

 命令されてしぶしぶ行う行為は、愛ではありません。おおよそ愛は、命令されてなされることではありません。誰かに「私を愛しなさい」と命令して、相手がそれに答えて私を愛してくれたとしても、そんな愛は愛ではありません。愛は命令された途端に愛でなくなるのです。
 しかしイエスさまは「互いに愛しなさい」と命令されました。そうするとそこでの愛とは、単なる感情に由ることではないのです。神さまの命じられた愛とは、感情的なことではありません。
 たとえ感情が伴わなくても、愛するということ。それは神さまが命令者であるので私たちに可能となりました。神さまがそのように言われるので、たとえ感情が伴わなくても、意思によって、選択によって愛に生きる道を生きることが、私の人生のおいて可能となったのです。
 心が伴っていないならば愛ではないと人は言います。しかし感情的な愛が必ずしも人を生かすことにならないということも事実です。本当の愛に生きることは、私の感情に従って為すのではなく、本当の愛をお持ちの神さまのみ心に従うことによってなされるのです。


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