●デボーションからの黙想3~リュティ『この日言葉をかの日に伝え』より(9)

もし私が、絶対にもはや何ごとも自明のこととして受け取らないということを始めるならば、その場合には、信仰の奇蹟が起ったのである。
(リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』より)

 「自明のこと」とは「何でも分かっている」ということでしょう。
 病気になれば苦しい、経済的に困窮すれば生きていけない、問題が起こればお先真っ暗、ということはこの世では「自明」のことです。また逆に蓄えがあれば老後は大丈夫、健康さえあれば生きていける、ということも自明のことかもしれません。しかしどのようなことであっても「自明のこととして受け取らない」、つまり病気になっても大丈夫、経済的に困窮しても何とかなる、問題が起こっても生きる道は塞がれない、逆に蓄えがあっても健康があっても明日は何が起こるかわからない、ということです。絶望的な状況の中でも絶望することから自由にされ、希望に満ちあふれる中にあっても備えを忘れない、明日はどんな日かわからないといことをわきまえ知るのです。そのように何事も「自明のこととして受け取らない」ということ。それ自体「信仰の奇跡が起こった」のです。
 奇跡というからには何か常識から飛び越えていることや自分にとって都合のよい出来事を求めてしまうのですが、本当の奇跡は自分の心が変わることです。絶望の中にあっても希望を見失わず神さまに期待する謙虚さ、また希望の中にあっても備えを失わない謙虚さ。そのような謙虚さを失わないことは、何よりの信仰の奇跡でしょう。


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