●デボーションからの黙想3~リュティ『この日言葉をかの日に伝え』より(8)

それが「来る方」の信仰共同体でない場合には―それが自分自身の蓄えと安全装置によって生き始める場合には、やがていつの日にか、そのような安全装置は、焼け切れてしまうだろう。
(リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』より)

 教会はつねに間もなく来てくださるイエスさまによって支えられている共同体でなければなりません。イエスさまによって生きる群れであり続けなければなりません。
 もしそれ以外で生き始めるならば、すなわち「自分自身の蓄えと安全装置」によって生き始めるならば、やがてそのような安全装置は焼き切れてしまい、その共同体はほろんでしまうでしょう。
 「自分自身の蓄えと安全装置」とはいったいなんでしょうか。人間はさまざまな体験を積み重ねそれを経験として蓄え成長していきます。それと同じように教会もさまざまな体験を積み重ねていきます。それらを教会の経験として蓄えていきます。やはり歴史の長い教会はさまざまな経験を積み重ねていますので、そこから学ぶことは多いのです。しかしそうして蓄えられた経験によって教会が生き始めようとするならば、そのような蓄えはすぐに尽きてしまうのです。自分たちはあのような経験があるから大丈夫だ、そのような経験が蓄えとなって、今を生かしているのだ、と安心するならば、そのような教会は「焼き切れて」しまうでしょう。
 教会は常に生きて働いておられるイエスさまによって生かされる共同体です。イエスさまの十字架の前にへりくだる信仰と、イエスさまの復活を信じどのような時にも復活の希望に生きる信仰によって生きる共同体です。


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