●デボーションからの黙想3~リュティ『この日言葉をかの日に伝え』より(5)

教会は、ただ信仰の対象であるよりほかはない。「われは聖なる公同の教会を信ず。」われは信ず! 貧しく弱いもの、この世の前で侮られているもの、愚かなもの、破滅したもの―そのようなものを、神は選ばれた。
(リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』より)

 「教会」は礼拝ごとに使徒信条で告白している通り「信じる」ものです。
 イエスさまは大好きなのだが、教会は今一つ好きになれない、とか、信仰は神さまとの関係において個人的なものなのだから、教会という組織は必要ではない、とか。罪人である人間はそういう議論が好きです。どこまでも自己中心なのです。逆に教会も罪人の集まりなのだから、そこに問題があるのは仕方がないのだ、と開き直ることも罪人ならではの理屈です。自己中心も開き直りも、いずれも聖書の語る教会を現わしているとは言えません。イエスさまは、私の教会を建てると言われました。またイエスさまは、教会を「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」と言われました。教会は、欠けだらけであると同時に、完全を目指して前進しているところです。私たちはそれをただ「信じる」ということにおいてとらえることができるのです。
 「信じること」。それは現在の状況をしっかりと受け入れつつ、将来を希求していることです。教会を見る時に、そこに頭(かしら)であるイエスさまの支えを見ること。それが信じることです。


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