●デボーションからの黙想3~リュティ『この日言葉をかの日に伝え』より(4)

神の御子が自分を持ち給うことを知っている者。その人は、御子を持つのである。
(リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』より)

 御子イエスさまを「持つ」者とは、御子イエスさまに「持たれている」ことを知っているものの事である、とリュティは語ります。自分を持っているのは自分ではなく、イエスさまがこの私を持っていてくださるのです。そのことを知っている者が、イエスさまを持っている者です。
 「イエスさまが私を持っていてくださる」とは、生きることにおいても、死ぬことにおいても、私の全存在がイエスさまの御手の中にあることを知っているということです。そのことを、聖書の言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)によって示され、受け入れている者のことです。
 自分を、自分の人生を、自分の生と死を、その手の中におさめコントロールしようとする人生が、いかに平安のないものであるか・・・。明日のことも知らない私たちにとっては、まるでライトの点かない自動車で暗やみの中を運転するようなものです。イエスさまが、私の人生を「持っていてくださる」。信仰者は安心して人生を歩んでいきます。


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