●デボーションからの黙想3~リュティ『この日言葉をかの日に伝え』より(2)

「大きな」というのは、この世の前で輝き価値を持っているという意味で「大きい」のではない。そうではなくて天国において「大きい」というのである。
(リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』より)

 大きいか小さいかと言えば、多くの場合大きいほうが輝いているし、価値があるように思えます。イエスさまもこの世で迫害されている者に向かって「報いは大きい」と励ましてくださいました(マタイ5章12節)。苦しみがあっても、必ずその苦しみが報われる時がやってくる、その報いは決して小さなものではない、私たちの思いよりもはるかに大きなものである、と語って下さったのです。今苦しみの中にある皆さん、イエスさまのお言葉を信じて耐え忍びましょう。忍耐の先には、輝く将来があります。
 イエスさまはただ報いは大きいと言われただけではなく「天では」あなた方の報いは大きい、と言われました。「天では」というのはやがて迎えられる「天国において」という意味でもあり、また今「神さまのご支配の中にあって」という意味でもあるでしょう。そのような神さまのご支配の中にあって「大きい」と言われたのです。神さま抜きにした地上でのことではありません。神さまが与えてくださる報いの大きさは、この世の基準や価値観、つまり「地上のはかり」でははかれません。「天国のはかり」つまり神さまの視点、神さまのお心によってのみはかることができるのです。この天国のはかりによって、あらゆるものをはかり始めるならば、困難の中にあっても、あるいはこの世的には輝きもなく価値もないような事々の中にあっても、信仰と希望と愛に生きることができるのです。
 


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