●デボーションからの黙想2~『カール・バルト一日一章』より(7)

私たちを傷つける人びとの負債が非常に大きく思われるときですら、彼らの罪は相変わらず神に対する私たちの罪よりは限りなく軽いのです。かくも大きな負債者である私たちは―この小さな事をせず、私たちを傷つけた者たちを赦さないならば、どうして私たちに対する神の赦しを期待しうるでしょうか。
(『カール・バルト一日一章』より)

 神さまは私たちの罪を赦して下さいました。私たちの罪を赦すために、十字架にかかって死んでくださいました。本来なら、罪人である私たちが受けなければならなかった罰を、イエスさまは代わりに受けてくださったのです。このイエスさまを信じる者はみな、罪の赦しをいただいています。自分の罪の赦しをいただくために私たちは何もできません。ただイエスさまを信じるだけです。ですから、誰かの罪を赦すことは、私の罪を赦してもらうための条件ではありません。
 しかし私の罪が赦されたことの喜び、その恵みの大きさをどのように知ることができるでしょうか。それは誰かの罪を赦したときに、はじめて知ることができるのではないでしょうか。自分を傷つけた人を赦したことのない人が、どうして神さまに罪を赦していただいた喜びを知ることができるでしょう。やはり自分を傷つけた人を赦すことは、神さまの赦しを期待し、知り、味わうために不可欠の事なのです。
 もちろん自分を傷つけた人を赦すことはなかなか難しいことですね。上記の言葉は「私たちを傷つける人を見る際に、少々ユーモアを保ちましょう!」と続きます。ユーモアを保つことは距離を持つこと、客観的に見ることです。


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