●デボーションからの黙想2~『カール・バルト一日一章』より(5)

キリスト者が祈る時、彼らは、祈ることのできない人びと全てのいわば代理人です。
(『カール・バルト一日一章』より)

 キリスト者となった人は、神さまを「父」と親しく呼んで祈ることができます。父はその子には良いものを与えてくださるので、子は安心して祈り願うことができます。たとえ的外れな願いを子がしていたとしても、父はその子の必要を知っておられるので、常に良いものを与えてくださいます。祈ることができるということはなんと幸いなことでしょうか。
 この世界には祈ることのできない人がたくさんおられます。何もかも自分で解決しなければならないと思っている人がいます。人生の重荷を下ろすところを知らず、いつも抱え続けている人がいます。キリスト者は、そのような祈ることのできない人びとの「代理人」として祈りに召されている人であるとバルトは語りました。
 自分の為にも祈りますが、キリスト者は隣人のために祈ります。祈ることのできない方に代わって祈ります。家族の代理人として、職場や学び舎にいる人びとの代理人として、地域社会に生きる人びとの代理人として・・・。大きな責任です。
 しかしこのような大きな責任を、この世にあっては小さく弱いキリスト者にお委ねになられたとは・・・。イエスさまは、なんと不思議なお方でしょう。きっと弱い私たちが祈るとき、イエスさまはともにいて支えていてくださるのです。代理人として祈るとき、祈るキリスト者自身がだれよりも恵みの御手の中におらせていただくのです。


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