●デボーションからの黙想2~『カール・バルト一日一章』より(4)

神が憐れんでくださる者は、自分への神の対立を体験することになります。
(『カール・バルト一日一章』より)

 私たちは、自分を見て、自分の弱さや足りなさ、罪深さを発見します。そういうものを発見すると「どうしてこう自分はダメな人間なんだろう」と自分を否定したくなります。しかし聖書の神さまは、罪人である私たちを憐れんでくださるお方です。私は自分を否定したくなるのですが、神さまはご自分が憐れみ深い神であると私たちに向かって自己を主張なさいます。そうして神さまは、私に対して「対立」されます。
 神さまを信じて生きるということは、常にこの「対立」を経験することです。「もうだめだ」と思い込む私に「何があっても大丈夫」と対立される神。「どうせあかんわ」と思い込む私に「なんとかなりますよ」と対立される神。絶望する私に対立し希望を語り、憎しみに翻弄される私に対立し愛を語り、不信に悩む私に対立して信仰を語る神さま。
 神さまのこのような「対立」を経験しているでしょうか。それとも、神を礼拝しているといいつつ、なんでも自分の思い通りにしてくれる「偶像」を拝んでいるだけでしょうか。


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