●牧師の机2~魂への配慮の歴史より魂への配慮の歴史2(20)◎目覚めさせること

「われわれの説教は、人びとにとって、外からやってきた知らない人間が何かを教えてあげるというようなことではない。そうではなくて、まだ理解されてはいないが、既に現実に存在している内的なものを目覚めさせることである。
カール・ラーナー(1904~1984)

 ドイツ南西部フライブルク・イム・ブライスガウに生まれたイエズス会司祭。カトリック教会に多くの改革をもたらした第二ヴァチカン公会議(1962~1965)において広範囲に及ぶ影響を与えました。
 神さまの戒めは、人びとを解放し保護するものであって、狭い生き方に閉じ込めることでも、妨げでも強制でもありません。人は、神さまの恵みの御手の中で、神さまに似た者として造られたのですから、神さまの像をその内に秘めています。説教すること、あるいは聖書の言葉をつたえ伝道することとは、すべての人が内に秘めている神さまの像(創世記1章27節)を目覚めさせることなのだ、とカール・ラーナーは語ります。それは強権的に語ることでは決してなされません。もし仮になされたとしても、それはカルト宗教を生み出しているだけでしょう。解放と保護からはほど遠い教会になってしまいます。
 解放と保護を語るならば、まず人の中にある神さまの像を発見する信仰の目を持たなければなりません。そしてそれを目覚めさせるための言葉を獲得しなければなりません。説教は、まさにそのような言葉の獲得です。


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