●牧会の机~魂への配慮の歴史より(36)◎柔軟に

「国民がどのような基本的な気質をもっているかであり、それをよく知らなければなりません。」
クレメンス・マリーア・ホーフバウアー

(1751~1820)
 モラヴィア南部のタスヴィッツ(現在のチェコ共和国?)に生まれた司祭。オーストリア・ウィーン大学に学びますが、当時の啓蒙主義に傾くカトリックの人々に対抗しようとしたこともありウィーンにとどまることができなくなります。オーストリアを去り旅に出ますが、途中立ち寄ったポーランドの首都ワルシャワ。そこにあった聖ベンノ教会で一年間だけの約束で奉仕を始めます。何もない状況の中で始まった働きでしたが、貧しい人々のための学校建設、孤児、捨て子のための育児院、売春を強要されてしまっていた娘たちのための施設を作っていきます。いずれも経済的には何の見込みのないところから始められるのですが、のちになってポーランド政府がささやかな援助をしてくれるようになりました。結局20年間の奉仕をすることになり、様々な国から集まった仲間は60名を数え、日曜日は早朝から夜まで、ドイツ語・ポーランド語での説教、音楽で彩られた荘厳なミサ、子どもたちのための教育、夜の集会と、様々なミサが行われました。毎年ミサにあずかる者たちの数は増加し、もともと年間2千名であったのが、14万人にまでなりました。
 さて、上記の言葉。音楽礼拝を行うことになったのは、歌を歌いことを好むその土地の人々の気質をよく知っての上でのことでした。福音宣教は堅く揺るぐことのない真理を、いかに人々に届けていくかということですが、届け方については人びとの気質に合わせて柔軟に形を変えていくのです。


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