●牧会の机~魂への配慮の歴史より(25)◎傍らに立ち仕える教会

「無実の者たちを有罪と思い込んでしまったのだということ以外の判断には至りようがなかったのである。」
フリードリヒ・シュペー(1591~1635)

 ドイツ・デュッセルドルフ近くに生まれたシュペーは10歳でケルンにあったイエズス会のギムナージウムに送られ人文主義的教育を受けます。19歳でイエズス会の熱心な修練士(修道士のようなもの)になり31歳でマインツで司祭に叙されます。「魔女裁判」が行われていた時代。ヨーロッパのいたるところで魔女とレッテルを張られた人々が刑に処せられていきました。シュペーはその「魔女」とされた人々の贖罪司祭に任ぜられるのですが、そこで知ることとなったのはこれらの人々が無実のまま殺されていったということでした。シュペーはひそかに『魔女裁判批判』を書きます。それが匿名で教会の出版許可もえず出版されました。結果シュペーは暴漢に襲われ頭に致命的な重傷を受けます。また職を解かれてしまいます。しかしより鋭い論調で第2版が刊行されます。結果イエズス会から追放されそうになりました。戦乱の中蔓延するペスト患者へのケアーをする中、自らも罹患し44歳で死にました。
 シュペーはカトリックの司祭でありながら魔女裁判を批判し教会の間違いを指摘しました。これは命懸けのことです。「十字架につけられた方に対する愛の故に、多くの苦しみを得たい」との若き日の献身の召命に従って生涯あらゆる人々の傍らに立ち続けこれに仕えたシュペーだったからこそ成し得たことだったのだと思います。私たちもいつも人々の傍らに立ちその言葉に耳を傾け仕えていく者でありたいと思います。


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