●牧会の机~魂への配慮の歴史より(24)◎断片

「完成してくださるのは神」、私のしていることは断片でしかありません」
フランソワ・ド・サル(1567~1622)

 1922年、教皇ピウス11世によってジャーナリストの守護聖人とされたフランソワ・ド・サル。フランス南東部・サヴォア地方にあったサル城に生まれたフランソワなので「フランソワ・ド・サル」です。サルはおサルさんという意味ではありません。12歳で司祭となる決心をし生涯教会に仕えます。晩年、枢機卿の栄誉とパリへの招へいを拒否し修道院に隠棲することを希望しますが間もなく健康状態が悪化し隠棲の希望は実現することなく最後の日を迎えました。その最後の日に友人の司祭から「神さまがあなたを必要としておられるならばその仕事を完成するためにご自分の癒しのために祈りなさい」と勧められます。それに対してフランソワは「私は役に立たないしもべでしかありません」ときっぱいと答え続いて語ったことばが上記の言葉であったと伝えられます。
 自分が完成しなければならない、と思う心は確かに責任感の強い立派なことでしょう。しかしフランソワに言わせるならばそれは傲慢でしかありません。完成してくださるのは神さまであって、人間はどこまで行っても「断片」あるいは一部分を担っているだけなのです。仕事も子育てもそうなのです。それを傲慢にも自分が完成しなければならないなどと思うので、よけいにややこしくなり、結果完成どころか打ち壊してしまうのです。神さまが働かれる所を大切にしなければなりません。
 このフランソワ。ある著書で「他者の犯す罪に対してはどこまで憐れみ深くあり、自分のしていることに対してはどこまで厳格であり得るか」が信仰者の試金石であると語っています。耳の痛いことです。


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