〔牧会ずいそう(選集)〕 過保護の害

 ある兄姉が切々と訴えたことがある。
「自分を導いてくれた人は余りにも親切で、手取り足取り、すべてに目を配り、痒い処に「目」が届く。この雰囲気の甘さに甘えて喜んでいたのも束の間、成長と共にこの世話が煩わしくなり、束縛にさえ感じ始めた。自分の生活、自分の将来の全てに口出しされるし、相談しなければ御機嫌が悪いようだ。自由が無い、離れたい……。このままではロボットみたいだ。親切は判る。恩も感じる。しかし、私が縛られている。自分で考え、自分で導きを確信して、苦しみ、もがき、迷ってもよいから、自分の道を探してみたい。
──『こうしなさい……、あぁしなさい!』と、お膳立てされていると、その親切が私を無視して更に自由まで奪う暴君の行為のように見えてくる──と、言うのだ。
最近よく聞く家庭内暴力も、このような『過保護の害』だと思う。子供に自立心が芽生えると、行き過ぎた干渉は迷惑であり……《自由の束縛・人格の無視・人形扱い》
……と、受け取られ、自由を求めて反抗する。「自由になりたい!」と心で叫びながら、自由に行動することに不安を抱き、自主的に行動することの訓練を身に着けていない自分を発見して悩み、八つ当たりしたくなる。
父なる神は訓練される………【ヘブル 十二章一節~十二節】………お方であり、過保護を嫌われる。


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