「夫れ基督の徳性は火なり。是れ水と配す。能く生命の水を知る者は又基督の火を知る。人受けて守らざれば之を得べからず。此の世此の火に乏し。是れ蓋し我等の中に来ると雖も我に於て暴発濫用すればなり。火は当に之を慎むべきなり。得ざれば以て生くべからず。之を得て其用を失すれば則ち死す。」
新井奥邃、『聖言』、137
「キリストの本性は火である。これは水とならぶものである。命の水を深く知る者は、それと同時にキリストの火を知る。人はこれを受け止め保つことをしないならば、これを得ることはできない。この世界はこの火に欠乏している。これはまさしく私たちの中にやって来るのであるが、私において突発的にまたみだりに用いることがある。火は当然これを度を越さないように控えめにすべきである。得ないならば、それによって生きることはできない。これを得てもそれを働かせようとしないならば、即座に死ぬ。」
キリストはご自身を命の水であると言われました。キリストを飲む(信頼する)ならば、その人は渇く(失望する)ことがありません。それとともに聖霊が降臨した際に火の姿を人びとは目にしました。すなわちキリストはご自身を火として、人間に現わされたのです。
銀は火によって不純物が取り除かれ純粋な銀になります。そのように信仰者もキリストという火によって、不純物が取りのけられ清められるのです。
しかし火は用い方を誤れば、人を生かすどころか殺してしまいかねません。誤った用い方とは、度を越してしまうこと、手にしても働かせないこと、などです。清くなろうとして自らを戒めることは大切ですが、度を越してしまうならば、自分自身を殺してしまうことになるでしょう。かといって火を働かせずに生ぬるく自分を甘やかすならば、清くなれないだけではなくこれもまた自分を殺してしまうことになるでしょう。
火であるキリストを適切に生きることが大切です。
〔聖書の個所〕
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
(ヨハネ7章38~39節)
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
(使徒2章3~4節)
信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
(第1ペテロ1章7節)